わが青春に悔なし
─中村光夫
「確かなことは、イタリイのルネッサンスのみならず、ルネッサンスというものそのものの性格が、日本人によってこれ程克明に語られたことはまだなかったということである。そして我々は更に、この中村が強調している若さというものが東洋の伝統にはなかったものであり(略)、それにも拘らず、中村がこの若さに彼自身の若さを感じているようにさえ見えるのは、彼の場合、少しも間違ってはいないのだということに注意しなければならない。ヨオロッパの文学が日本に持って来られたというのは、結局はこの若さが日本に伝わって来たということなのである。人間の可能性を信じてこれを開拓するという、若さというものの本質が、ヨオロッパでのように完全に、民族的に発揮された例は他にない。中村はそれに打たれて、そこに彼自身が学んだ文学の源泉があることを直覚するのに必要な知性も、教養も備えてヨオロッパに渡ったのだった」。
吉田健一『中村光夫のフランス留学』
日本近代文学にとって、青春は最大の商品です。無名の若者が新たな青春像を描いた向こう見ずな小説でデビューし、文学界もそれによって文学的にも経済的にも活性化していきます。坪内逍遥の『当世書生気質』以来、日本文学にはこうした青春小説の伝統があります。特に、戦後にその傾向が顕著です。混乱期に一九〇〇年生まれの石坂洋次郎が若い読者に向けて愛や性などのテーマを盛りこんだ青春小説が絶大な人気を得ます。戦後という新しい時代にふさわしい青春像を読者は求めたのです。富島健夫や石原慎太郎、岩橋邦枝、大江健三郎、柴田翔、中上健次、村上龍、三田誠広、中沢けい、
青春をキーワードにして今日の文学を考察することに無理があるという指摘も少なくありません。三浦雅士は、『青春の終焉』において、近代文学が想定してきた「青春」概念が終わりを迎えたと主張しています。東京オリンピック以降の風景の変化がそれを前提にしてきた日本近代文学を葬り去り、青春小説が持っていた文学的なインパクトは失われ、産業としての出版を支えているにすぎないというわけです。また、木村直恵は、『〈青年〉の誕生』の中で、近代で〈青年〉がいかに誕生してくるかを論じています。確かに、青春は近代の学校教育制度の産物であり、青春小説は近代文学において成立しています。「シュトルム・ウント・ドランク」から主人公の線的な成長を描く教養小説が誕生します。この「教養」は古典ギリシア語やラテン語などの伝統的な教養を意味しません。それは新たな時代にふさわしい教養の習得です。教養小説は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』やゴットフリート・ケラーの『緑のハインリヒ』、トーマス・マンの『魔の山』がその代表ですが、自我の目覚めとその形成を描いています。「青春」はもともとは中国の四原論に由来し、朝=春=東のアナロジーによって定義されるのですけれども、近代では、学校生活などの中で、悩める多感な時期を経て、成長し、自立していく姿です。大人はわかってくれないと自意識に目覚め、仲間と葛藤しながら、自己を対象化して、親から自立し、アイデンティティを確立しようとする線的な発達段階です。青春小説の青春はその明るさに潜む不安や不満、疑念、刹那を示し、それは教養小説のヴァリエーションです。青春は近代と密接に結びついており、近代が時代遅れになったとすれば、青春も陳腐な概念だと言わざるを得ないでしょう。日本では、加えて、富島健夫が青春小説からその愛と性の面を強調した『おさな妻』(一九七〇)によってジュニア青春小説のジャンルを開拓し、川上宗薫や宇野鴻一郎と並んで、官能小説を確立しています。
三浦雅士や木村直恵の仮想敵は中村光夫です。多くの批評家が彼の中心的概念を「青春」に求めています。近代文学を青春から考察することを提起したのは彼の功績なのです。
Her toys are broken boys
Lined heart to heart at her door
Each a burnt-out kiss of her lips
A measure of her pleasure
She's at a nice age
Ripe age
Ready to be killed by the thrill
The child in her smile is cracked
Her innocence smashed
There's nothing left of her party dress
The bow in her hair isn't there
ニュース速報
22番は今日で
1週間たってしまったんですけれども
でももうそこにはいられなくなって
彼は花のように姿をあらわします
Coming up like a flower
Through the prisons of perfume
Alone with her cheekbones
Counting lovers she has known
In the secrets of her room
The taste of first lipstick
The mechanics of a wink
The china of the doll
Divine on her chaise long
(Yellow
Magic Orchestra “Nice Age”)
中村光夫は、敗戦後間もなく、多くの青春論を女性誌などに書き、それをまとめて、一九四七年一一月、『青春と知性』として刊行しますが、そこに所収されている「青春について」において、青春に関して次のように述べています。
 「若い時は二度とない。」これはよく人々が青年に向つていふ言葉である。二十歳を越した青年でこれを親なり目上の人からなり聞かされたことのない人はゐないであらう。しかしこの言葉の意味を本当に考へて見た人は、おそらくそれほど多くはゐないのではなからうか。「若い時は二度とない。」だから勉強せよとか、好きなことをして遊べとか、この言葉の解釈は様々につくであらう。
 だがこの平凡な諺があまねく人工に膾炙してゐるのは決して単にそれがめいめいに勝手な解釈を許すからではなく、むしろそれがどのやうな解釈をしても貧乏揺ぎもせぬ或る厳しい事実の端的な表現だからではなからうか。すなはちどんなに精出して励もうと、または故意にのらくらして過さうと、僕等の若い時代といふものは唯一度しかない。二度とそれを取返すことは誰にも不可能だ。この誰も疑ひ得ぬ、だが誰しも忘れ勝ちな人生の真実をこの言葉は僕等の胸に訴へるのではなからうか。また更に考へて見れば、二度とないのは決して僕等の青春だけではない。僕等の一生もまた疑ひもなく二度と生きられぬものである。子供の時代も老年の時代も一度過ぎ去れば僕等には再び生きられない。これも僕等が不断は忘れがちな大きな事実である。
 しかし僕等はそのことも別段ことさらに考へない。たとへば子供を叱るとき僕等は「お前達の子供時代は二度とないのに。」などとは云はないし、また老人に向つて逆意見をするときもそんな事を云つたといふ例はないやうである。
 では人々は何故青年に対してだけこの事実を強調するのであらうか。云ふまでもなくそれは、青春が人生にとつて一つの決定的な時期だといふことを、人々が経験によつて知つてゐるからであらう。
幼年期だろうと、青春期だろうと、老年期だろうと、その時期は一度きりであって、繰り返すことができないことでは同じです。にもかかわらず、青春期が特別視されるのは、「青春が人生にとつて一つの決定的な時期」だからです。国民国家=産業資本主義体制は、学校教育を通じて、それを担う国民を絶えず生産しなければなりません。線的な流れになりますから、当然、中等・高等教育の時期がその人の人生に決定的な影響を与えることになります。明治以降、青春の自己形成の延長に人生がつくられる神話が浸透していきます。
それ以前の成長に関する認識はこうです。「子曰吾十有五而志于学三十而立四十而不惑五十而知天命六十而耳順七十而従心所欲不踰矩(子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順し、七十にして心の欲する所に従うも、矩を踰えず)」(『論語』為政第二)。ここでは青春が特に重要な時期であるとは記されていません。段階を一つ一つ経て、人生を完成させていきます。志はともかく、二〇歳やそこらの経験が人生を決定することはないのです。
中村光夫は、それが近代の産物であると踏まえつつ、青春に際していかに臨むべきかについて次のように続けます。
チェホフの戯曲に出て来る或る人物が次のやうな感想を洩らしてゐる。
「私は人生といふものが二度生きられたらと思ふことがありますよ。さうすれば一度は手習ひで二度目は清書といふことになります。」と。これは一見奇矯な囈言(たわごと――川島)のやうであるが、多少人生の経験を経た者なら誰しもの胸に時々湧き起る、やや贅沢な、だが真実な感慨であらう。過失を犯した事のない者は世の中にゐない以上、誰しも自分の人生を振り返つて見てそれを完全な「清書」だと思ふ人はゐないわけである。もしもう一度生れて来たら自分のこれまでの生活をそつくりもう一度繰り返したいなどと思ふ者はよほど幸福な例外であらう。
 しかし実際の人生ではかういふ希ひは単なる夢想にすぎないことは誰しも知つてゐる。生活とはその本質において僕等に練習や清書を絶対に許さぬ何物かである。人類の巨大の生活である歴史が厳密にいへば決して繰り返さぬやうに、僕等のささやかな人生にも同じ事件は決して二度と起らない。僕等にとつて生きるとは絶えず何事かを新しく試みることであつて、しかもその試みに繰り返しは許されない。もしも僕等の身の上に外形から見れば全く同様な事件が偶々二度起り得るとしても、その後の事件は僕等が既にそれに似た事件の経験があるといふだけで、前の事件とは異つて現れる筈である。この意味で考へれば僕等の生きる一歩一歩は取り返しのつかぬ瞬間の連続にほかならない。
 そして青春とは正しくこの人生の本質が僕等の生活に最も明かに現れる一時期であるとすれば、それが僕等の生涯にとつてどれほど重要なものであるかはいふまでもあるまい。
 人々は普通青年は人生を知らぬといふ。だがかういふとき彼等は人生とはまさしく人生を知らぬ人間によつて築かれるといふ大きな事実を忘れてゐる。僕等は結婚するとき、果して結婚生活とは何かを知つてゐるであらうか。まためいめいの職業を選んだとき、僕等は果してその職業が実地にどのやうなものか知つてゐたであらうか。
 かう考へて初めて僕等は青年が志を高く持つべき必要を本当に理解するのではなからうか。何故なら青春とは僕等が人生の未知に対して大きな決断を下すべき時であり、その決断がやがて僕等の一生を支配するものだからである。
 青年にとつて何より大切なのは、真面目に考へ、断じて行う人生への熱情であらう。もしこれを欠けば彼の生涯は悔恨をすら本当に知ることはできない。
 「青春とは僕等が人生の未知に対して大きな決断を下すべき時」であるから、「その決断がやがて僕等の一生を支配する」のです。「人生の未知」に対する「大きな決断」の認識が一生のうちに、青春を反芻しつつ、現われます。青春は人生のプロトタイプでも、通過儀礼でもありません。中村光夫は青春を封じこめようとはしません。彼は青春と言うよりも、青春に対する意識を問題にしているのです。
 中村光夫は近代の作家の青春を問い直します。それは彼らが文学史に名を残す作家となる前の時期です。中村光夫は自明性に異議を唱えます。二葉亭四迷は二葉亭四迷として生まれ、育てられたわけではありません。さまざまな影響を受け、彼が二葉亭四迷としてつくりあげていったのです。彼は最初から二葉亭四迷なのではありません。中村光夫は作家を存在ではなく、生成として把握します。中村光夫にとって、「青春」は作家や批評家が「彼自身になるための願い」(『漱石の青春』))です。それは力への意志でしょう。
中村光夫が青春を問う以上、二葉亭四迷を論じるのは自然です。この偉大な小説家が青春期の近代日本が経験した父殺しの父を生み出したからです。日本近代文学の書き言葉の原型は二葉亭によるロシア語から日本語への翻訳です。日露戦争による軍事的勝利は文化的父殺しへと変容して意識されると同時に、日本近代文学は二葉亭という父を殺して、私小説へと成長していくのです。
丹羽文雄が中村光夫の二葉亭四迷論を批判し、それに反論して、風俗小説論争が起きています。中村光夫は、一九五〇年、『風俗小説論』を刊行し、そこで近代リアリズムの発生・展開・変質・崩壊の過程を語っています。近代リアリズムが二葉亭四迷によって成立し、島崎藤村により発展して、田山花袋において変質したというわけです。「『蒲団』を読んで見ても、また右に引いた彼の言葉からも、まず第一に明らかなのは、花袋が感動し、模倣したのは、戯曲に書かれたヨハンネスであり、この戯曲を書いたハウプトマンではない、ということです。(略)その結果、彼が自らをフォケラァトに擬し、フォケラァトの立場からフォケラァトを描いた『蒲団』は、ちょうど立体を平面に投影したように、奥行きも構成も失った平板な独白になり、しかもその独白は作者の『主体的感慨』で主人公だけでなく、作中人物すべて塗りつぶしてしまったのです」(中村光夫『風俗小説論』)。
 竹田青嗣は,『日本近代文学という発想』で、『風俗小説論』を次のように要約します。
藤村の『破戒』(明治三十九年)から花袋の『蒲団』(明治四十年)にかけての時期が日本近代文学における”青春期”であったが、この二つの小説は日本の近代リアリズムの可能性の両極のように現われていた。西欧のリアリズムを技法としてとり入れた日本の自然主義は、しかし、『破戒』における「近代的な孤独」の発見の可能性を放棄し、「蒲団」における近代的観念の統帥に閉じこもった。それは西欧の作家が批評的視線において描いた主人公たちの苦悩を、日本の文学者たちが自ら実演するに等しかった。つまり、鴎外や漱石などを少数の例外とする日本の大部分の作家たちは、人間の「苦悩」を冷徹に見つめる西欧近代文学の「思想」に対してではなく、そこに描かれた「苦悩」そのものに共感したのである。表現に値するのは「思想」ではなく「苦悩」であると信じられた。この道は日本の近代小説が自己批判力を放棄し、私小説から風俗小説へという崩壊に導かれる道にほかならなかった。『破戒』と『蒲団』は、いわば日本近代文学の”青春期”における可能性の両極だったが、それが『蒲団』から『破戒』へというコースをたどらず『破戒』から『蒲団』へという「滅びにいたる大道」へ動いたところに大きな不幸があった……。
 中村光夫は、『川端康成論』の中で、日本の近代文学史における特徴が「何より強力な詩の運動を欠いていた」点にあり、その結果、小説家が詩人も兼ねねばならず、「いわば当時の小説家は詩人であつた」ため、小説の主流が私小説となり、「強力な社会理論を背景とするプロレタリア派の散文精神」もその現状を打破できなかったと指摘しています。日本近代文学は花袋以来、「散文精神」とも言うべき「自己批判力」を放棄したせいで、「不幸」の歴史です。「私小説にあっては、作者と作中の主人公とが同一の人物だという了解が作者と読者のあいだにあり、それを前提としてすべての小説が鑑賞されますが、その結果、作中人物の行動にかんする批評がそのまま作者にたいする批評に通ずることになり、作品批評がいつも芸術批評より、倫理的批評の性格をおびることになります。これは私小説の全盛期であった大正文壇の特色でもあるので、ここではふれませんが、小説にまず作者の『生き方』の報告書を見、それを俗物にたいするのとまったく違った見地から、厳しく倫理的に批判するという文壇の気風は、自然主義によって土台をつくられました。国木田独歩が龍土会の席上で、ある人の『蒲団』評に答えて、『だって、甘いたって仕方がないさ。花袋君の恋はああいう恋なんだから、とにかく甘くっても何でも、徹底だけはしているさ』といったと、花袋自身が書いていますが、作中人物の行為がそのまま作者の責任になる点では、私小説批評の典型がすでにここにあるといえます」(中村光夫『風俗小説論』)。
さらに、中村光夫は膨張した自我に閉じこもる自我中心主義を批判し、五〇年代から六〇年代にかけて、永井荷風や谷崎潤一郎、志賀直哉、佐藤春夫を扱っていますが、これは正統的な文学史に対する批判的な文学史です。
中村光夫は、『志賀直哉論』において、「小説の神様」と崇拝される志賀直哉を極めて妥当に次のように激しく糾弾します。
かういふ極端に男性を中心にしか感受性の働かない作家が男女間の倫理の問題を扱ふのは、それ自身無意味なことです。彼がエゴイストだからといつても事態は同じことです。なぜならエゴイストにとつて倫理的思索の第一歩は相手の人間のエゴをみとめることにあるのですが、志賀直哉には──そして時任謙作にも──男女間の問題を生活に即して考へる限り、この一番大切な前提が欠けてゐるのです。
「小林秀雄は志賀直哉を、明瞭な『作家の顔』を浮かばせうる稀有な文学者として評価したが、中村光夫は、マルクス主義への観念批判をそのまま移して、志賀における『他者』の不在を批判している。つまり、中村光夫の批評の視座は、つねに、日本近代における〈自我〉の社会的未成熟といった”構造”を浮かび上がらせるようなものだったと言える」(竹田青嗣『〈制度〉という悪夢』)。中村光夫は結果の必然性を構築してその正統性を保障する文学史ではありません。自明性へ異議を申し立てるのです。
 戦前の「青春」に欠けているのは共学です。当時、中等教育以上は男女別々に教育を受けなければなりません。男女が入り混じり、社交を楽しむようなサロンはありません。戦前の「青春」は、旧制高校の比喩で語られることが多いように、均質的かつ集中的なクラブなのです。このクラブ的な認識に基づいた青春を経験したエリートが国民国家=産業資本主義=帝国主義を推進し、戦後の復興でも、この染みついたものが問題であったにもかかわらず、それを自明視して、議員や政財界、言論人が示している通り、ある意味で、同じことを繰り返しています。近代的な自意識への閉じこもりはクラブ的な発想の産物です。戦後生まれの作家が描く青春文学は、
中村光夫の文体の特徴と見なされている山田実妙のような「です・ます」調は、書簡形式で戦中に書かれた『戦争まで』を別にして、青春論から本格的に使われ始めます。それは戦後に確立された文体なのです。女性誌の読者を意識したせいもあって、丁寧に語りかける口調です。批評を一方的に自分の主張をアピールするだけのアジテーションにしていません。それは他者を意識しているのです。「『です』とか『ます』とかいう口調で、対象とする作品あるいは作家に批評の言葉が思い入れをすることを回避したこと。しかしそれが同時に味もそっけもない、これほど読んでつまらないものはないというスタイルになった一つの理由だとぼくは理解しています」(吉本隆明『難しい話題』)。こうした意見も日本近代文学の青春志向を反映しています。小林秀雄以来、吉本隆明も含めて、いささか無鉄砲とも言える若者が新しい批評を引っさげて威勢よく登場してきたのです。「対象とする作品あるいは作家に批評の言葉が思い入れをすること」は批評における青春の表象です。中村光夫の文体は、青春を語りながら、青春期を感じさせません。むしろ、批評の青春の自明性に対する懐疑を体現しているのです。
 中村光夫の作家論は彼らの青春を扱っていますが、その目的は二つあります。一つはその作家を彼にさせた青春を分析し、その通説を再検討する試みです。もう一つは、その青春の時代的・社会的背景を明らかにする企てです。作家が自明ではないように、「青春」も自明ではないのです。「青春がおのおの個人にとって、悔恨と哀惜の対象になるのは、そこで実現の機を見出せなかった幾多の生への可能性によるのであるとすれば、僕等はすでに人間の生涯に近い時間を経過した我国の近代文学史の残るモメントに対して、真剣な悔恨の上を抱くべきではないでしょうか」(中村光夫『風俗小説論』)。
 中村光夫は、『知識階級』において、「わが国の知識階級にはじめ人材を供給したのは、武士階級でした。というより明治維新は在来の武士階級を知識階級に変質させて行った過程と見てもよいでしょう」と言っています。知識階級が聖職者や商人、農民、ブルジョアジーから生まれなかったため、彼らは階級闘争を経験していないのです。明治維新は革命ではなく、クーデターです。「まずそれは、わが国を幕末維新のころおかれていた『半開』の状態から、急激に『文明』にすすむという、国家的必要をみたすことを使命としていました。したがって彼等の身につけたのは、西洋の学問であり、その人的な素材は、主として旧武士階級(とくに下級の武士の間)から供給されました。彼等は『四民の平等』を標榜した社会で、従来武士の間でもきびしく守られていた上下の身分家族の差別から解放され、これまでにない出世の機会を保証されて、その使命にいそしむことができました。この洋学で装われた武士の子弟たちが、僕等の先祖であり、それがいろいろに変質しながら、根本の性格は変らずに現代まできています」。 
 近代化が定着するに従い、「知識階級が、特権的な指導者の地位から、支配者たちに使われる技術者に変って行ったので、彼等の知識の向上と逆に、その社会における位置は下ってしまったのです」。二葉亭四迷の『浮雲』は、森鴎外の『舞姫』と違い、こうした「書生」の姿を描いています。中村光夫は、二葉亭や永井荷風など対象を変えながら、「青春」の社会による変容と反復を論じています。文学者は近代における知識階級ですから、彼らの青春は近代の変質に対応します。『浮雲』は知識階級がリーダーからテクノクラートとして扱われ始めた時期の作品です。「しかし彼と社会とのあいだには、後の知識階級が例外なく味わった間隙がすでに存在します。まず彼が勤先で与えられる仕事は、『身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡ずして得た学力を、斯様な果敢ない馬鹿気た事に使ふのかと、思へば悲しく情けなく』なるようなものであり、学校で考えたような思想や条理は、実世間の行動の規準としてはまったく無価値になります」(中村光夫『知識階級』)。
その後、若者はテクノクラートからサラリーマンや兵士のモラトリアムになっていくのです。それに伴い、作家が描く青春も変化していきます。志賀直哉や佐藤春夫の青春は二葉亭の青春とは別物にさえ映ります。知識階級ははるかに小さな存在になってしまっています。もはや政治家や官僚に期待されながら、苦悶しつつ、意を決して作家になる時代ではありません。作家は、親の世代からどう見られるかは別として、一つの職業です。戦中には、死の身近さによって、青春が将来の成長に結びつきません。三島由紀夫は、作家になってから、青春をやり直すように生きていきます。さらに、戦後になると、知識階級という呼称を使うことさえ躊躇われるほどです。一九五〇年代以降、若者は、東西冷戦と消費社会を背景に、消費者として最先端の文化の担い手に躍り出ます。戦前以上に、青春小説が時代の文化を表象していると見なされるようになります。無名の新人による青春小説は文学界を最も活性化せせると期待され、数多くの一発屋が登場し、消えていきます。
 中村光夫は、こうした論考を通じて、青春と言うよりも、青春の変容を検討しています。それぞれの作家の青春ではなく、彼が青春をどう位置づけているかを論じています。中村光夫が批判するのは風俗小説などに見られる青春に対する倒錯した意識です。彼の青春概念は青年期に限定されているわけではありません。近代的自我やアイデンティティの問題とは無縁です。鋳型に押しこめることができないゆらぐものです、
 森毅は、『青春の自立』において、青春をゆらぎだと次のように述べています。
 それでもぼくの青春の戦中戦後は、物語のなかにしかない。ぼくが若者のころ、生まれる前後の大正リベラルや昭和モダンはまだしも、先輩のお兄さんの話から憧れとともにイメージをふくらませていた。しかし、日清日露を生きた明治のおじいさんがいても、それは物語の世界でしかなかった。時間をずらして考えれば、今の若者が憧れとともに語るビートルズの時代とするなら、戦中戦後というのは、かつてぼくが若者だったころの日清日露なのだろう。
 でも、そうした物語の流れは変わっていても、そこでの人間の成長の流れは共通しているような気がする。青春に一つの道を定めて、その延長上に人生があったというのではない。むしろ時代や社会が変わって、自分も変わっているのに、青春が姿を変えながら反復しているように思うのだ。イモムシとチョウほどの差はないにしても。
 そしてなにより、十五から二十五ぐらいの青春というのは、自分の基礎が形づくられる時期でもある。ひところなら、大学には暴力学生がいるとこわごわ入学してきた学生が、夏休みすぎになるとその本人がヘルメットをかぶり、やがて一年もすると運動に挫折したりする。本をやたらに読んでも、自分の好みが作られるのは、二十をすぎてからだった。
 つまり、青春とは、なにより新しい自分を見つける時代。そして新しい時代を感ずる年代である。もっとも、感じた時代をドジに表現することがあって、むやみに刃物をふりまわされたらかなわんが、感ずるだけなら若者に分がある。それが青春の十年。自分も時代も固定して考えることはないだろう。
 その青春の時代に青年の自立があるわけだが、それを固定的に考えて、その後の人生を決定すると考えることもあるまい。自立というのは、人生のステージを変えて、新しいステージに立つことだと思う。時代も社会も変わるのだから、決まった形が続くと思えない。それで、なにが青春の自立かというと、家庭という舞台から社会という舞台に移ること。それまでは、親と喧嘩していようと、たとえ親がいなくとも、世界は家庭だった。世界が変われば自分だって変わって当然。しかしながらつい、自分の過去を再現してしまう。新しい舞台なのだから、新しい表現でなければなるまいが、本質は変わらぬものだ。未来への出発のようでありながら、未来というものは不確定にゆらぐ。青春のはかなさは、そうした決定と不確定の間にありそうだ。自立という言葉のニュアンスの反対に、青春にはゆらぎのニュアンスがつきまとう。
 ことさらに深刻ぶらずとも、ゆらぎながらも青春。
 「ゆらぎ(Fluctuation)」は計測誤差とは違います。カオス現象であり、決定論的非周期性の一種です。ゆらぎはある量が平均値の上下に不規則に変化することを意味し、もともとは電子工学の分野で発見されています。この不規則さにも種類があり、ゆっくりした変化からランダムなものまであります。特に、脈拍の時間変化などに見られるその中間の現象を「1/fゆらぎ」と呼びます。このfは振動数(frequency)に由来します。1/fゆらぎは、一九二五年、アメリカのJ・B・ジョンソンが真空管を流れる電流を観測している時に、見出しています。一九七〇年代後半になって、構造が単純な無髄神経かつ巨大軸索を持つため、神経膜などのカオスの研究でしばしば用いられるヤリイカの実験からこの現象への本格的な探求が始まっています。1/f ゆらぎは非線形相互作用として見られる現象です。つまり、ゆらぎは自己組織化するシステムにおけるリズムにほかなりません。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたり例なし」(鴨長明『方丈記』)。
 中村光夫はこのゆらぎによって青春を認識しようとしているのです。青春とはこういうものだとか青春はかくあらねばならないとかなどと口にしません。青春小説では自立を前にした若者を描きますが、それは時代によって変化しています。近代によって誕生したとされる「青春」はゆらぎのない線形的な一段階ですから、その意味で、ポストモダン的状況では、青春は終焉を迎えたと言ってよいでしょう。青春が非線形的なゆらぎなら、それはまだ十分に把握されていないのです。青春は克服されるべき段階ではありません。
 青春をゆらぎとして捉える中村光夫は、これまでの引用から推測できる通り、青春を近代の問題と関連させています。中村光夫の「青春」は後の批評家にも影響を与えています。吉本隆明の「自立」や江藤淳の「成熟」はその代表です。それらは、共に、日本の近代をめぐる考察に結びついています。
 吉本隆明は生活に基盤を置き、いかなる体制やイデオロギーに依存しない姿勢を「自立」と呼んでいます。「自立」の思想は、彼の『自己とはなにか』によると、「じぶんが自然過程のように繰返すあしたの生活、そのこと以外にはまったく関心をもたない」大衆の「不敬」なる生活に立脚し、思想を絶えずそこに立ち戻らせて検証されていくのです。外来のイデオロギーとその反動思想によって現実を裁断してそれにあてはめるのを繰り返してきたのが日本近代であり、足元の生活から思想を紡ぎ出すべきだと訴えるのです。
他方、江藤淳は、『成熟と喪失』において、第三の新人を論じながら、高度成長による日本社会の変質を解明し、「治者」としての父性像に辿り着き、次のように述べています。
しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかもしれない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、その前から実在は遠ざかり、「他者」と共有される沈黙の言葉の体系は崩壊しつくしているかも知れない。彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯えつづけなければならないのかも知れない。だが近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきりと見定めることができ、「個人」であることを余儀なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかも知れない。
江藤淳は、日本の戦後精神が成熟と自立を成し遂げられなかった根底に、母に抱かれた日本の母系社会の精神があることを指摘します。日本は母系社会であるために、父性原理である西洋近代が定着できないというわけです。
中村光夫の青春と近代の議論はこの二人とは異なっています。彼は近代という「青春の自立」を考えるのです。中村光夫は日本の近代文学を批判しつつ、西欧の近代化を参照して、日本の近代に対する認識を検討していきます。一九三八年から翌年に亘って、フランスに政府招聘留学生として渡り、ヨーロッパの生活に根付いた近代に触れています。けれども、その経験から、ありうるべき近代を想定して、日本の近代を批判したり、あるいは西洋近代が真の近代であり、日本の近代が偽の近代であると批判したりしているのではありません。青春も、近代も、中村光夫にとって、実体ではありません。
近代の最大の数学的道具は微積分です。近代は、その意味で、線形的体系の完成と言っていいでしょう。線形的体系としての近代が世界を変革するのです。ところが、中村光夫は青春をゆらぎとして把握していますから、近代にも同様の認識を適用しています。そうなると、近代は、驚くべきことに、非線形ということになります。これは極めて稀有な発想です。近代は線形的認識の発展し、確立された時代であるという支配的認識に対して、彼は近代でさえ非線形だと言っているのです。けれども、中村光夫がゆらぎという「自己組織化(Self-Organization)」から青春や近代を検討しているのは、決して、強引ではありません。と言うのも、非線形・非均衡現象に対するアプローチの中で、自己組織化は、比較的、微積分的な要素還元主義、すなわち現象を要素に分割して理解する手法をとっているからです。ゆらぎと自己組織化は、必ずしも、同一ではありませんが、臨界点が自然に安定化する自己組織化臨界のように、1/fのゆらぎを通して、現象に自己組織化が見られるなど一定要件の下で重なり合っています。砂を静かに落としていくと、砂山ができます。しかし、ある高さに達すると、それ以上大きくならず、砂は山の斜面に沿って流れ落ちてしまいます。これは自己組織化臨界の一例です。
一九四二年七月、『文学界』は「近代の超克」というシンポジウムを開催します。京都学派・日本浪漫派・文学界グループの三派が参加し、西洋の近代をいかにして超えるかを論じています。そのメンバーは小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、林房雄、亀井勝一郎、三好達治、西谷啓治、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、諸井三郎、津村秀夫ら一三人です。顔ぶれからわかるように、政治的・哲学的・文学的議論に終始し、経済的な認識は欠落しています。司会の河上徹太郎は、一九三三年に国際連盟で、ポール・ヴァレリーを議長として西欧の知識人が集まり、第一次世界大戦後の秩序、すなわちヴェルサイユ体制の維持の思想的意義を提案した「知的協力委員会」に倣っていると言っています。「近代の超克」は日米開戦への「知的協力」の試みです。もっとも、「近代の超克」のターゲットは近代自体ではありません。大正デモクラシーです。このリベラリズムは日本における本格的な近代政治思想でしたが、政治的・経済的・軍事的・社会的変化の中で、知識人の間に、その克服の気運が生まれます。それは泥沼化した日中戦争を正当化し、軍拡を支える思想が必要となっていた時期です。近衛文麿は左右両派から幅広く知識人を集め、「昭和研究会」を設立し、東亜新秩序のイデオロギーを作成させようとします。そのメンバーには三木清がいます。近代の超克はこの延長線上にあります。大正デモクラシー=近代=リベラリズムという短絡的な図式の超克を京都学派・日本浪漫派・文学界グループの知識人たちは独創性と信じていたのです。このような粗雑で、浅はかな理論が国際的に通じるはずもなく、また、実際の政策にも反映されることはありません。彼らは、それ以後、「ねばならない」と唱え続けていくのです。丸山眞男などネオ大正デモクラシーとも呼ぶべき大正デモクラシーの再考・復権が、戦後、政治思想の主流にとって代わり、その克服は依然として「近代の超克」の域を出ていません。中村光夫はこの「近代の超克」の総括として、一九四二年一〇月、彼による『反時代的考察』とも言うべき「『近代』への疑惑」という論文を『文学界』に書きます。
 中村光夫は、「『近代』への疑惑」において、近代化がもたらしたものついて次のように言及します。
むろん当時の我国にとつて西洋自体がひとつの巨大な新発見であつたとすれば、そこに新たな知識の糧を求めることに何等不健全な事情があつたわけはない。しかし問題はここに移入された知識の質である。話を簡単にするために極端な云ひ方をすれば、僕等は西洋の文学や思想を、あたかも汽船や電信機と同様に、ただ僕等にだけ目新しい出来合ひの品物のやうに受け取つて来たのではないか。文学の上でも当時の作家が外国文学の作品からは強い影響を受けながら、それを書いた西欧の作家の生きた姿を本当に究めた人がほとんどゐないやうに、思想の上でも当時の学者が西洋から受入れた新思想とは単に西欧の哲学者の学説や体系についての知識にすぎなかつたのではなからうか。そして外国の作品を要領よく模倣した者が新文学の選手と見られたやうに、西洋哲学の巧みな解説者が哲学者乃至は思想家として通用した。いはば文学の領域では外国の作品がすぐ役立つお手本として読まれたやうに、思想の領域でも思想についての知識が思想の代用品として行はれた。
 中村光夫は近代を超克するという視座自身に嫌疑を向けます。「近代の超克」という問題提起が西欧のものであり、西欧を批判するのに西欧の概念を借用していること自体倒錯にすぎません。日本の近代は輸入物であり、外発的である点で、西欧の近代とは決定的に異なっています。近代の超克について語る前に、日本の「近代」に対する認識の歪みについて省みるべきなのです。
 中村光夫の日本の近代化に対する批判は夏目漱石と似て非なるものです。「注意すべきなのは漱石の『近代への疑惑』が、明治といういわば日本近代の”青春期”の内側の苦しみであるのに対し、中村光夫のそれはむしろ近代日本という”青春期”そのものでの疑惑にほかならなかったという点であろう。(略)もともと中村光男は、大なり小なり”第二の青春”を生きようとした『近代文学』系の批評家とは違って、むしろ『青春』への根底的な『疑惑』を強力な批評上の武器にした批評家である」(竹田青嗣『日本近代文学という発想』)。荒正人や本多秋五、小田切秀雄などの『近代文学』の批評家はプロレタリア文学運動の崩壊を体験したため、その青春の反省から「政治と文学」における政治の優位から文学を解き放とうとしていましたが、それは反抗から諦観へと至る成長の過程であり、時としてよく見られる通俗化にすぎません。青春をゆらぎとして捉えられず、そこには青春そのものに対する「疑惑」がないのです。
 中村光夫が批判しているのは近代ではなく、日本人の近代に対する倒錯した意識です。この鬱屈した意識が日本の近代化を推進させ、その超克を唱えさせているのです。
 さらに、中村光夫は日本の西洋に対する意識について次のように続けます。
当時の社会を支配した西洋崇拝といふよりはむしろ西洋恐怖の風潮のお蔭で、そこに輸入された外国の文学または思想は単なる生硬の形ですら社会から過大な流通価値を与へられたため、却つて我国の土壌に根を下す余裕を与へられなかつた。或る思想が輸入され、一渡り流行して消化される暇もなく忘れられて行くと、これと代つて別の思想が更にまた「新知識」として輸入された。そしてこの思想もまた単に目新しい知識である間だけ歓迎され、やがて忘れられるのは前の思想と同じであつた。
 その結果、文学は絶えず新式の機械でも輸入するやうに、海外の新意匠を求めて転々し、哲学は自分の思想を持たぬ多くの「哲学者」を生んだだけであつた。
 「西洋恐怖の風潮」から、「或る思想が輸入され、一渡り流行して消化される暇もなく忘れられて行くと、これと代つて別の思想が更にまた『新知識』として輸入」される光景が続いています。中村光夫は西洋の流行にばかり気を取られている文学者を批判しています。けれども、西洋からの文化の流入自体には否定的ではありません。彼は、「かうした外国文明の急速な吸収は明治以来の我国の生存上の必要事であつた」と認めているのです。
 中村光夫は、と同時に、西洋偏重への反動的な姿勢にも次のように断じています。
最近数年来、国民の文化的自覚を促す声もまた盛であるが、長年にわたる外来文化の圧迫によつて無意識のうちに醸成されて来た精神の畸形は、単なるジャーナリズムの風潮の交替などによつては決して癒されぬほど根深いのではなからうか。むしろ反対に時勢の表面的な動きに「気ぜわしく」適合することにのみ汲々として、自分でものを考へる習慣を失つた精神の持主は次第にその数を増す傾きさへあるのではなからうか。(略)
 ここに僕等の実際に生きている「近代」の悲しい正体があるとすれば、この精神の危機を僕等のまづ闘ふべき身内の敵として判つきりと意識することに、その超克の着実な第一歩があらう。
 中村光夫は近代に対する日本人の倒錯した意識を直視しなければならないと訴えています。西洋偏重もその反動にすぎない国粋主義にも否定的です。両者に共通しているのは西洋への歪んだ意識です。青春を否定すればするほど、それを再現してしまうように、近代を叩きながら、逆に、彼らがイメージする近代に囚われています。近代は「決定と不確定の間」にゆらいでいるものなのです。
中村光夫が批判するのは倒錯した意識であり、これは戦後も一貫しています。中村光夫は、一九五一年一一月に発表した『はにかめる栗鼠』において、外務大臣重光葵が訪米した際の二つのエピソードをきっかけにして、日本人が鬼畜米英と罵っていたアメリカ人に対し、戦後になると、彼らにこびるようになっていると批判しています。
 訪米中の重光外相がハワイ=サンフランシスコ間の旅客機に登場していた時、彼が自分の寝台を子供連れのアメリカ人女性に譲り、それが日本で「美談」として報道されます。中村光夫は、「この『美談』をすなほに呑みこむことができませんでした。それは氏がこのやうな親切を発揮したのは、相手がアメリカ婦人だからではないか。もし日本婦人だつたらどうだらうかといふ疑問がすぐ頭にきたから」と次のように指摘します。
 外国を旅行したことのある者は、誰しも、外交官の伝統的な特権意識が――ことに「一般邦人」にたいして――どんなに強いか知つてゐる筈で、そのなかでも官僚的だと云はれる重光氏が大臣の公務で旅行してゐる場合、肩書もない一般国民の乗合ひには、たとへそれが子供をつれた母親だらうと、孫を抱いたお婆さんだらうと、自分のために予約された寝台をゆづる筈はないと思はれたからです。
 このやうな特権意識はある意味では正しいかも知れないのです。外務大臣重光氏はけつして自分一個のたのしみのために旅行してゐるのではありません。
 彼の双肩には日本国の運命がかかつてゐる、と云つては少し大げさすぎるかも知れませんが、ちよつとぼんやりしてゐると、重大な不利をまねくことは、何も今度にかぎつたことではありません。
 
 しかも、重光外相はアメリカのナショナル・プレス・クラブで自らを「はにかめる栗鼠」と譬えて、極めて卑屈な演説を行っていると中村光夫は次のように批判します。  
これは大分評判になつたので、今でも記憶してゐる人が多いかと思ひますが、念のために当時の新聞から引用すると、氏はここで自分を「はにかみ屋の栗鼠」にたとへ、その日の朝ワシントンの公園で、放しがひの栗鼠に「手づから」餌をやる貴婦人を見たが、「婦人がこの小さな動物に対してあふれんばかりの好意を持ち」栗鼠がそれになついてゐる有様は、あたかも「平和的共存を保証する眼に見えない合意」を象徴するもののやうに見えたといふのです。(略)
 情けない卑屈さです。かりに主客がところをかへて、アメリカ側のたとえばダレス氏が、こんな比喩を持ちだして、我々が貴婦人でお前たちは放し飼ひの栗鼠だと云つたら、おそらく重光氏自身も腹をたてたらうと思ひます。
 かういふ相手に云はれたら、怒らなければならないやうなところまで、自分自身を卑下する必要が、一体どこにあるのか、といふことになると、そんな必要はどこにもなかつたことは明かです。
 問題は、重光氏がかういふ何の必要もない自己卑下を、かういふ儀礼的な席でなぜアメリカ人たちのまへでやつて見せたかといふことですが、それはおそらく、氏が同じく必要もないのに、アメリカの婦人に飛行機の寝台をゆづつたのと同じ動機であつたらうと思ひます。
 これを重光外相の個人的資質に還元すべきではありません。「今日の日本文化の或る性格を象徴するものであり、したがつて僕等自身の問題として反省するべきものを含んでゐると思はれます」。「たえず外国のもっとも新しいものをできるだけ素早くとり入れるために、見逃すまいとしている精神が、いつのまにかその内面を空虚にし、生活との間に不思議な断層をつくってしまった」。
 そこで、中村光夫は「文化的地盤の準備」が異文化との「平和的共存」につながると次のように述べています。
彼等は植民地の白人から無知な原住民の召使が狡知と我欲によつて獲得する人間としての最低の尊敬、すなはち不信と警戒の念さへ得られぬほど、相手に従属してしまふので、このやうに高尚な、いはば無償の卑屈さが、長年にわたる文化的地盤の準備なくしてあり得ないことは明かです。
 事実、彼等のなかには、学問その他の才能ではかなりすぐれた人も居り、日本人同士のつきあひではそれほどそれほど下劣でも卑屈でもない人が多いのです。ただ彼等は外国人と接触すると相手をあまり「理解」できすぎ、それによつて自分も文化的に向上したやうな気持になるために、人間対人間の関係をこえた、(あるいはそこまでゆかぬ)無私の従属をもとにした「平和的共存」を謳歌することになるのです。
 中村光夫は欧米の制度と言うよりも、それを生み出した文化に目を向けます。外国人と接するには、まず相手の文化を理解する必要があります。自分自身が馴染んできた文化を自明にしていては、「自分も文化的に向上」しません。近代の超克は、近代を文化から「理解」することなしに、討議され、「知的協力委員会」と違い、「平和的共存」の議論に至らなかったのです。重光外相をめぐる日本の言説には、戦争の経験がまったく生かされていません。
 森毅は、『むしろ洋魂和才』において、近代日本が諸制度を西洋から輸入しながらも、その背景にある文化を顧みなかったと次のように述べています。
明治以来、西洋の制度をいろいろとりいれたけれど、最大の失敗は「和魂洋才」にあったと思う。制度を変えながらも、文化をとりいれなかった、ちぐはぐさにある。戦後教育だって、制度は変わっても、文化はむしろ過去への一元化を志向している。
制度を変えるからには、それに伴う文化の変化をイメージしなければなるまい。さまざまな価値を持った人たちが、それぞれに生きていくにはどうしたらよいか、それは洋魂に学ぶほうがよい。制度よりむしろ、そのことを考えてほしい。
多様化と自由化を肯定したうえで、どのような制度がありうるかと考えさえするなら、制度はどうあってもたいしたことじゃない。
文化の裏打ちがなければ、制度は儀式化してしまいます。和魂洋才といった傲慢かつ怠惰な姿勢がその事態を招いているのです。国民国家=資本主義体制を導入する際、すべての面で封建的発想を廃棄しなければならないのに、道徳イデオロギーになると、それに依存してしまう。中村光夫は、一九五一年に、広津和郎とアルベール・カミュの『異邦人』をめぐって論争しています。広津和郎は「作者の心理実験室での遊戯にすぎない」のであって、ムルソーを精神衰弱の末期症状だと書いたのに対し、中村光夫は『広津氏の「異邦人」論について』において「小説の真実性は生活や事実以外にないとする偏見」にすぎず、既成道徳でこの小説を裁くのは不適当であると批判しています。「歳は取りたくないものです」。生きた文化的な観点から小説を考えるという発想が、広津和郎には根本的に欠落しているのです。「さまざまな価値を持った人たちが、それぞれに生きていくにはどうしたらよいか、それは洋魂に学ぶほうがよい」。
 中村光夫は、『「近代」の借り着』において、近代と文化について次のように述べています。
近代が自己を特色づける文化の生産力を持つのは、その内発性によるものであり、我国にはそれが欠けてゐたことは、前述しましたが、明治大正時代には、その内発性の欠如は、近代化が社会の一部分にしか行はれてゐないこととひとつの均衡を保つてゐました。
 近代のある部門は、外国のものであるが、とり入れなくてはならない、他の部門は、外国のものであるから、とり入れない方がよいと判断する主体が(たとへその判断が間違つてゐても)まだのこつてゐたわけです。
 それが戦後のやうに、外力による近代化が社会のあらゆる面にわたつて行はれると、近代の外発性は、日本文化そのものの性格になり、いはばひとつの完成に達します。
 今日の日本文化の特色はここにあり、僕等はここで世界のどの国も経験しなかつた事態に生きてゐると云へます。
 近代社会に充実と生きる論理をあたへるのがその内発性である以上、僕等の周囲で、近代の価値がすべて裏目にでてゐても不思議ではありません。
 ここで、人々は独立してゐるのではなく、社会から隔絶した孤独を強ひられてゐるだけです。青年たちは自分の人生を選ぶ自由を与へられてゐるのでなく、ただ欲望を刺戟され、それをみたす順序も手続も知らされずに野放しにされてゐます。近代の、安定と均衡を失つた、変化と過度の時代といふ性格は、ここでは他の何処よりはつきりでるので、世相や風俗の変転は、それが根のない輸入品であるだけに速やかなのです。贅沢と貧乏、繁忙と怠惰などの対照も、社会が自己を異質の観念に支配されてゐる度合ひに比例して大きいのです。
 生きる手段はすべて過剰であり、何故生きるのかが曖昧になつてきます。今日、自殺を企てる者と正面からむかひあつて、彼に何故生きなければならないかを説得することは、おそらく誰にもできないのです。
 しかし、このことは、事態がここまで来て、僕等ははじめて、近代を自分のものとした、少なくもそれを自分のものとする可能性が生れたのを意味します。この空虚で繁忙な生活を真正面から見つめることで、僕等ははじめて人真似でない、自分の問題と向ひあひます。
 これは、僕等にとつていはば自業自得のものであり、前例のない難問である点で、僕等にいやでも近代人として思索を強ひる筈です。
 眼前のレッテルや通念にだまされず、いつでも現状を合理化しようと構へてゐる政治家のかけ声をはなれて、僕等の心の歴史を言葉にすることがもしできたら、これまでの近代謳歌の文学とはまつたく別物の、同時代にたいする批判の形をとつた近代思想が生れるでせう。 
近代は、「内発性」があるとき、「自己を特色づける文化の生産力を持つ」のですが、戦前の日本はそれが欠如していても、近代化が部分的にとどまっていたため、「ひとつの均衡」が保たれています。当時の近代化は閉じられた系での均衡をゆるがすほどではないのです。一方、戦後は「外力による近代化が社会のあらゆる面にわたつて行はれ」、社会は非均衡へと移行します。「近代社会に充実と生きる論理をあたへるのがその内発性」であるから、この状況は好ましくないと思われかねません。しかし、中村光夫によれば、この非均衡において、「僕等ははじめて、近代を自分のものとした、少なくもそれを自分のものとする可能性が生れたのを意味します。この空虚で繁忙な生活を真正面から見つめることで、僕等ははじめて人真似でない、自分の問題と向ひあひます」。近代は社会という系を開かせ、非均衡をもたらします。近代の文化はこうした非均衡から生まれてきます。けれども、近代の持つ非均衡への傾向という意義は日本であまりに理解されてこなかったのです。1/fゆらぎを探しもせず、非均衡をいかがわしく思い、均衡を維持しようとするとき、近代に対する倒錯した意識が生まれてしまうのです。
 日本における近代の変容には大きく二種類が挙げられます。一つには定着する際に、日本の現状への適応です。もう一つは閉じられた系の均衡を崩さないために、政治的意図に基づく改変、すなわち「洋魂」の排除です。明治政府は近代のイデオロギーを学校を通じて全国に普及・浸透させていきます。学校は近代を布教する教会であり、教師は宣教師なのです。青春も近代学校教育制度の産物であり、それもこの倒錯した意識がもたらした制度によって歪曲されています。
 この矛盾は校舎に顕著に見られます。意欲的な意図に基づくケースを除けば、通常の校舎には教室に対して北側に廊下があります。文部省は、当初、校舎を洋館風、すなわち廊下を挟んで左右に部屋がある建築にすることにし、長野県松本市の旧開智学校などがその様式で建築されています。ところが、これは、風通しが悪く、日本の蒸し暑い気候には不向きだったため、初等・中等教育の校舎には次第に採用されなくなります。ただし、伝統的な日本家屋では、縁側と呼ばれる廊下は部屋に対して南側にあります。実は、教室に自然光を取り入れ、さらに冬季の人工暖房の補助として太陽光を使う理由から、教室を南側にするように文部省が一九〇一年に通達を出しているのです。それ以前、四国や九州では、台風の進路にあたり、教室を強い風雨から守るため、廊下を南側に造られています。しかも、秋口の照りつける太陽光が午後の授業の邪魔になることも配慮していたのですけれども、そういった地域的な諸事情は東京を基準にした文部省に無視されます。かくして、暗い北側の廊下は、怒り狂った教師から生徒へ与えられる罰の場と化すのです。
 近代化に対する倒錯の最悪例が教育勅語でしょう。一八七九年頃、近代化を推進する旧下級武士と天皇についてきた宮中派が、教育問題をめぐって、軋轢が顕在化し、互いに発言力を確保しようと激しいイデオロギー闘争をしています。その典型が一八九〇年に下賜された「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語です。政府内のさまざまな権力抗争の後、次第に、保守派が覇権を掌握し、自由民権運動を代表にする民権派は急激な欧化政策によって、文化的混乱をもたらしていると宮中派と共に考えるようになっていきます。民衆に対する不信感がその動機です。
しかも、教育勅語が明治維新のイデオロギー、それも立憲制の原則に完全に反していることを起草者である法制局長官の井上毅も承知しています。もともと欧化派に属していた井上も首相の山県有朋に説得され、自ら執筆を申し出ているのです。『官報』に教育勅語が掲載されましたが、その際、文部省訓令第八号の付帯資料として二ページ下段から三ページ上段にかけて収められています。重要法案は『官報』の巻頭に載せるべきなのに、「政治上の詔勅ではなく君主の社会的著作として性格を与えたため、当然の措置であった」(佐藤秀夫『教育の歴史』)。
教育勅語は次のような「著作」です。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ尊ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
教育勅語はこのように定義を欠く曖昧な儒教道徳と通俗道徳、皇国史観が混在しているだけでなく、三ヵ月程度で仕上げたやっつけ仕事だったため、文法上のミスまであります。「一旦緩急アレハ」と記述されていますが、この場合、已然形ではなく、「一旦緩急アラハ」と未然形でなければなりません。「総じて、日本社会の教育理念の根源を『良心』とか『神』とかに求めるのではなく、歴史的存在であると同時に現在の支配構造の要となっている天皇制に求めているところに、この勅語の基本的特徴があったといえる」(『教育の歴史』)。教育勅語は現体制の正当化を理論的な根拠に基づいて訴えるのではなく、まがまがしい神話的な言説を無根拠に並べ立てています。近代的な法治国家建設を目指した明治維新に反した徳治主義的な教育勅語が道徳の基礎付けを行ってしまうのです。
中村光夫が問題にするのはこうした近代の変質です。彼は近代をめぐる日本の現状に即した改変という言い訳を素朴に受け取りません。西欧的な制度を文化から見ていなかった多くの知識階級には、その意義が真に理解されていないために、恣意的な変更をしている可能性があるからです。中村光夫は、先に触れた通り、最も私小説を批判した批評家ですが、私小説も日本の現状から必然的に誕生したと納得しません。近代リアリズム小説が私小説に変容したのも、文化理解の欠落という同様の理由からです。
やはり文学における私小説の覇権獲得も、文学的な論争の勝利ではなく、政治的意図に基づいています。日本の帝国主義政策の特徴は支配地域で必ず日本語教育を強制した点です。台湾や朝鮮半島など文化的に負っている中華文化圏を支配することになったものの、近代化はあくまで西洋から導入したものでしかないため、日本の独自性を被支配者に対して示す必要があります。近代以前の日本は、ずっとではありませんけれども、中国皇帝に朝貢貿易を行っています。ただし、海によって守られたせいか、必ずしも柵封国ではありません。そこで、植民地支配に関係する教育者の間から、日本語を通せば、いかなるものも日本化するというイデオロギーが考案され、実行に移されます。方言も日本語の一種であり、現場から排除しない方がいいと本土の教育者から提案されましたが、明確な基準がないと植民地では混乱するという理由で却下されています。近代日本における最大のイデオロギーは天皇制ではなく、日本語です。私小説の主流化はこれと無縁ではありません。
一九〇七年六月、内閣総理大臣西園寺公望は、読売新聞社の竹腰三叉に相談した上で、自宅に文学者二〇人を招待します。首相が文学者を招いた史上初の出来事である「雨声会」と呼ばれるこの会合は、以降、主客を交代して数回開かれています。出席者は徳田秋声、巌谷小波、内田魯庵、幸田露伴、横井時雄、泉鏡花、国木田独歩、森鴎外、小杉天外、小栗風葉、広津柳浪、後藤宙外、塚原渋柿園、柳川春葉、大町桂月、田山花袋、島崎藤村です。人選に携わった近松秋江は、俗物らしく、「卑しい文士風情が雨声会一夕の宴席に招待されることを無上の栄誉と感佩するのも無理はなかろう」と述懐しています。彼らは近代文学の”青春期”に対する倒錯した意識を持っています。夏目漱石や二葉亭四迷、坪内逍遥は出席を断っています。漱石は、痛快にも、「ほととぎす厠なかばに出かねたり」と一句添えて返答しています。さらに、一九〇九年、小松原英太郎文部大臣は文学者を首相官邸に招きます。彼は国家による文学アカデミーである「文学院」を構想し、文学者を権力側に囲い込もうと考えていましたが、この企ては実現しません。言語の芸術である文学は、他の芸術以上に、帝国主義政策を推進する為政者は何としても利用しなければならないと考えているのです。
出席者の多くは自然主義文学に属する文学者です。現在のタブロイド紙に相当する小新聞の『読売新聞』は、『早稲田文学』や『文章世界』と並んで、自然主義文学運動を推しています。出席を断った夏目漱石や二葉亭四迷は、クオリティ・ペーパーである大新聞の朝日新聞社に所属しています。ただ、坪内逍遥は、幸田露伴同様、読売新聞社社員です。文学博士号を授与するという文部省の申し出を拒否した漱石に対し、一九〇七年(明治四〇年)一一月一七日付『読売新聞』は、権威主義的にも、「変人」と評しています。今時の作家が無批判的にほいほい喜んで受け取る文学賞や文化勲章など漱石にすれば愚の骨頂でしょう。自然主義文学は党派性を生み、反自然主義文学との間で主導権争いを始めます。この文学闘争はメディアの代理戦争です。大新聞と小新聞が販売部数で競うというのは、いささか奇妙ですが、この業界は二つの戦争報道によって部数を伸ばし、特に、日露戦争が読者市場を大幅に拡大したため、各新聞・雑誌は市場の占有を奪い合っています。文学は新聞の婢というわけです。近代日本では、欧米とまったく違い、啓蒙を兼ねつつ、発行部数拡大の目的に基づき、新聞社が文化事業──美術の展覧会やクラッシク・コンサートからスポーツ・イベント、囲碁将棋のタイトル戦に至るまでを──を今でも主催・協賛しています。これは、現在では、文化のマネージメントの自立における最大の弊害の一つです。一八九七年、尾崎紅葉が『金色夜叉』を『読売新聞』に断続的に連載を始めると、小僧や女中まで新聞の発売を心待ちするようになります。さらに、一九〇七年に、漱石が『虞美人草』を『朝日新聞』に連載すると、大変な話題になっています。日本近代文学は、脱亜入欧の意識に沸く「国民」の中、帝国主義の正当化のために、標準語を目指す極端な国語教育政策を推進する政治家・官僚・軍部・メディアによって成立し、発展してきたのであり、文学者は、メディアの一員として、帝国主義に荷担しているのです。自然主義文学の勝利は体制による認知によって決着します。自然主義文学は官製文学となり、国民文学の地位を手にしたのです。タブロイド紙のゴシップ記事程度の風俗小説である私小説が文学的な評価基準にまで高められます。なるほどギュスターヴ・フローベールは新聞の三面記事をモチーフに『ボヴァリー夫人』を書き、近代リアリズムを編み出しましたが、スキャンダル記事はあくまで口実にすぎません。自然主義文学は、その露悪主義的傾向から、当時社会面を最も騒がせた事件の一つに由来する「出歯亀文学」と揶揄されているほどです。芸術的価値があるどころか、風俗的な小説と見られていたのです。一九〇八年、東京の大久保で、女湯を覗いた上、入浴帰りの女性に対する強姦致死事件があり、かなり強引な捜査・取調の結果、その容疑者として「出ッ歯の亀太郎」こと植木職人の池田亀太郎が逮捕・起訴されています。小新聞はこの事件に関して連日詳細に報道しています。自白以外の証拠もなく、本人は冤罪を主張し続けていましたが、翌年には無期徒刑の判決が確定しています。オジー・オズボーンが自分の家庭生活を”MTV The Osbournes”として二四時間生中継をしている現代でも、その番組に芸術的価値を見出す人はいません。自然主義文学を通じて形成される日本近代文学史は非主流派を反自然主義文学という範疇に入れてしまうのです。
私小説がヨーロッパ文学と違うのは当然としても、私小説を書いて、それをヨーロッパ文学と同じだと吹聴していることに中村光夫は憤っているのです。その無知さを省みることなく、文学者たちは日本の帝国主義に「知的協力」し続けたのです。「中村氏の著書は、われわれ読者に、自分らを凡人と思いこませずにはいられないような性質を持っている」(寺田透『中村光夫論』)。
言うまでも無く、近代日本が手本にした近代に対する西洋人自身の認識にも、実際、線形的であり、倒錯した意識が見られます。社会の変動を封建社会から近代社会への発展と捉える「近代化論(Modernization Theory)」はアンリ・ベルグソン(Henri Bergson)の「閉じた社会」から「開かれた社会」へ、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tonnies)の「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」へ、マックス・ウェーバー(Max Webber)の合理化論などが最初期の代表です。これらは産業主義的で、唯物史観の体系立った歴史発展を覆し、経済成長を近代化の機軸として発展史観を提出した反マルクス主義のイデオロギーです。ベルグソンには均衡=非均衡の観点がありながらも、全般的には十分にそれが生かされず、線形的な枠組みによる歴史把握と言えます。さらに、こうした立場は一九五〇年代から六〇年代にかけて進歩主義的理論として支配的になり、唯物史観に対抗して、発展途上地域の開発問題などを背景に、戦後のアメリカの世界戦略を理論的に正当化しています。ウォルト・ホイットマン・ロストー(Walt Whitman Rostow)は、『経済成長の諸段階』(一九六〇)において、経済成長論の立場から伝統的社会・離陸のための先行条件期・離陸期・成熟への前進期・高度大衆消費時代という五段階の経済発展段階を主張しています。この本の副題が「一つの非共産主義宣言」であるように、ロストーの近代化=産業化(industrialization)は唯物史観批判が鮮明です。また、マイロン・ウィーナー(Myron Winner)やシリル・エドウィン・ブラック(Cyril Edwin Black)、デイヴィッド・E・アプター(David
E Apter)、シュムエル・ノア・・アイゼンシュタット(Shmuel Noah Eisenstadt)らが、政治社会学の観点から、第三世界の発展と近代化を分析しています。けれども、八〇年代にポストモダンが勃興し、先進国において段階論で形成された近代概念が再検討されます。九〇年代に入ると、東西生鮮構造の解体による社会主義諸国の発展戦略が挫折したものの、東アジア諸国やASEAN、インドが経済成長を遂げ、グローバリゼーションと各種原理主義が進行し、こうした近代化論を葬り去っています。「そして世間から学者といわれるような人々に却って無教養な者が多いのも当然の事として頷ける筈である。彼等の所謂教養とは、多くの場合単に無用な知識の堆積にすぎない」(中村光夫『中島敦』)。
 そうした世界情勢を考慮するなら、近代は段階ではなく、ゆらぎです。現在、中国やベトナム、イランといったかつて原理主義的政策を実施していた国家の間で、近代化が進み、経済的な発展と政治的な多様化が見られるようになっています。かつてアメリカが東西冷戦の戦略に基づいて援助した政権は、フェルディナンド・マルコスのフィリピンやスハルトのインドネシア、アウグスト・ピノチェトのチリを筆頭に、腐敗し、独裁化が進んだだけで、民主的活動は弾圧され、貧富の差は絶望的に広がり、必ずしも安定化していません。新近代化政策を施行している国々では、政権が原理主義的なイデオロギーを掲げながら、民衆の不満や要求に徐々に応え、開放化を実施しているのです。その過程は不規則なゆらぎのリズムを持っています。改革開放政策の中国共産党は労働者の利益代表ではなく、商工会議所と化しています。二〇〇四年一二月一六日付『朝日新聞夕刊』の定森大治の「イランの将来像」によると、イランの元政府高官は、最近のイランの近代化について、「革命前の近代化は、西欧モデルの模倣を意味していたが、今はイラン独自の近代化を模索する時代だ。とはいえ、保守派が石油利権や金融をおさえている現状を変えないことには」と言っています。イランは、イスラム革命前にもモハンマド・レザー・パフレヴィーによって、西洋近代化が推進されています。もっともその内実は先の親米独裁政権とさほど変わりません。また、ベトナムにしても、アメリカは多額の資金援助を行い、近代的な学校や病院を建設しています。けれども、ベトナムの民衆はアメリカの軍事介入に賛成せず、戦争に勝利したにもかかわらず、市場経済を取り入れるのみならず、一九九五年に合衆国と国交を正常化しています。ベトナムのホー・チョン・デー元将軍は、二〇〇五年一月五日付『朝日新聞夕刊』に掲載された中島泰の「ハノイの将軍」によると、アメリカとの和解について「賛成する。だが、たくさんの地雷と枯葉剤が残る問題の解決に手を貸して欲しい」と答えています。ベトナムにしろ、イランにしろ、人口の半数以上をアメリカとの対決の後の世代が占めています。青春が近代化を実現しているのです。彼らはリーダーでも、テクノクラートでもありません。知識階級でさえないのです。それは大衆にほかなりません。大衆の青春が新たな近代化の特徴です。かつての近代化が政治主導で行われたとすれば、今回の近代化は経済の要求に押されて進んでいます。近代の超克などは、どれほど一九四〇年代の日本人にとって有意義であったとしても、彼らには、空疎です。近代は到達され、かつ超えるべき段階ではないのです。中国やベトナム、イランは近代というゆらぎの中にいます。1/fゆらぎとしての近代化を模索しているのです。
 この三国だけでなく、東南アジアにおける近代化は日本とは比較にならないほど劇的です。日本の近代化は、アジア諸国と比べて、緩やかに実行されています。近代日本について、西洋が何世紀に亘って達成されてきたものをわずか一〇〇年で実現した変化の激しさを強調して、論じられることが多いのですが、他のアジアの地域の経験はそれ以上に激烈です。「たとえばタイ。低湿地を人工的に農地化し、それをいま工業化しようとしている。日本の何百年かの歴史を、百年ぐらいに圧縮して見る気分。あるいはインドネシア。火山国で、地味が豊かで農業生産性が高く人口が密集している。ヒンズー教、仏教、イスラム教と、異文化が流入して、それが多様化してインドネシア化する。こちらは日本の歴史をひろげた気分。もちろんそれらが日本と異質なことは当然。ASEANを見る視点でのイメージだけの話。イメージと言って、デザインと言っていない。APECで日本のリーダーシップなどと言われるが、『大東亜共栄圏』のことがあるので、あまりリーダーシップと言ってほしくない。それだと、米国や中国のような大国政治の構図のなかでのデザインになる。デザインを考え出すと文化よりは政治で、力の地図をえがきかねぬ。それよりは、文化のイメージをえがくほうが安全」(森毅『二十一世紀のアジア』)。
 近代の超克は、政治主導で、デザインを考え出し、「力の地図」を描く企てです。「文化のイメージをえがく」ことをしていないのです。日本浪漫派のアジアへのシンパシーにしても、アジアの複雑さが欠けています。日本の近代化は、東南アジア諸国に比べれば、ゆっくりしているだけでなく、単純です。線形として捉えられるのです。多民族・多宗教を抱えていたり、地理的複雑さを備えていたりするアジア諸国の近代化は非線形的です。中村光夫は衛星放送やインターネット、携帯電話といった高度に発達した国際的な情報網も目にすることはありません。けれども、彼は近代に向けられた意識の倒錯を問い、ゆらぎの視点を持っていたため、その洞察は、むしろ、現代的です。民衆からの要求によって日本の現状に適応するために変化した近代を中村光夫は決して非難したりしません。「動きなれた精神の軌道から出ることは、口に云ふほど、簡単ではないのです」(中村光夫『「近代」の借り着』)。問題なのは認識に潜む意識なのです。近代化の導入を自己組織化を持つゆらぎとして非線形的・非均衡的に認識するのが新しい近代化です。そこにはかつてのような倒錯した意識が希薄です。ゆらぎの中で近代化が推進されているのです。中村光夫は近代をある歴史的段階と捉えていません。前近代=近代=脱近代という線的な歴史観ではなく、近代をゆらぎとして把握しているのです。線形的手法が非線形現象にはお手上げである以上、近代に限界があるのは当然です。だからと言って、線形的体系の完成度を利用せず、それ廃棄するとしたら、愚かなことでしょう。中村光夫は1/fゆらぎとしての近代化を暗示します。彼は反近代ないし脱近代ではなく、近代を自己組織化に基づいて問いつめることによって、近代を非線形認識として再検討しています。中村光夫の作品は、今日拡大しつつある新たな近代化についても示唆を与えているのです。
 青春ではカントを読みました、ゲーテを読みましたと言っても、その頃の「自己形成」のコースの延長上に人生があったのでは、そのあと一向に成長しませんでした、と言うようなものではないか。あるいは、それを思い出の通過儀礼に封じ込めて、別の大人の人生を歩みましたでは、もっとつまらない。コースに沿っての成長なんてのは、今の時代にそぐわない。それだけにかえって、コース信仰が強まっているが、実質が空洞化すると幻想は肥大化するという法則が貫徹しているだけのこと。
 人生その時々に、それを成長と呼べるかどうかは別々としても、さまざまな屈折があるのは当然のことである。そして、その原型が青春にあって、その時に人生が固まってしまうものでもなく、別の形の屈折として姿を現すものだろう。そうした意味でこそ、青春の屈折である。それは成長を約束するものでもない。
 現在のぼく自身にとって、マンやヘッセを読んだ時代というのは、もうほとんど忘れてしまった青春の物語でしかない。しかしながら、その青春をどう位置づけるかは、老人の現在の問題としてある。
(森毅『マンやヘッセを読んだ時代』)
淋しくなると訪ねる
坂道の古本屋
立ち読みをする君に
逢える気がして
心がシュンとした日は
昔なら君がいて
おどけては冗談で笑わせてくれた
青春は長い坂を登るようです
誰でも息を切らし一人立ち止まる
そんな時君の手のやさしさに包まれて
気持ちよく泣けたなら倖せでしょうね
言葉に出せない愛も
心には通ってた
同じ道もう一度歩きませんか
ペンキのはげたベンチに
手のひらをあててると
君のいたぬくもりを今も感じます
青春は長い坂を登るようです
誰かの強い腕にしがみつきたいの
君といた年月が矢のように過ぎ去って
残された悲しみがしゃがみこんでます
青春は長い坂を登るようです
誰にもたどりつける先はわからない
そんな時ほら君がなぐさめに駆けてくる
倖せの足音が背中に聞こえる
(岡田奈々『青春の坂道』)
僕らは惰性で灰色の老年を生き、残った酒の苦がい澱を飲まねばなるまい。
(中村光夫『鈴木力衛への弔辞』)
〈了〉